特別お題「今だから話せること」
今日は特別お題で書きます。
小学校最後の年だった。
その時、校内ではドッジボール一色だった。
その彼は運動神経が良く、容姿はとある著名なボクサーに似ていた。
宮沢賢治の詩が入った少し大きめのTシャツを着ていることが多く、
とにかくドッジボールがとても強かった。
もちろん同じように強い人から見たらどう見えるのかはわからない。
でも、運動神経が悪い私からは、彼が一番強いように見えた。
その年、委員会が一緒になり、一緒に仕事をする機会があった。
彼は私に普通に話しかけてくれた。優しくしてくれた。
それがすべての始まりだったと思う。
当時の私は今よりも会話が相当苦手だった。
そして、自分のことが嫌いだった。
話せる人もかなり限られていた。
そんな私は彼に対しても気後れしていたはずだが、彼は何も気にしていないように話しかけてくれた。
その年の数年前に、当時小学校で一度だけのクラス替えがあったのだが、仲の良かった友達のグループと私一人だけ別になってしまったことがある。
以降、明らかに暗くなっている。
人と仲良くなることは簡単なことではなく、今振り返っても運も少なからずあると思う。
どうするべきか、どうしたら楽になるのかを私は知らなかったし、誰もそんなことは教えてくれなかった。
わからないなりに一緒に考えたり、寄り添ってくれるような人も当然ながら皆無だった。
むしろ、突き放されていた。周りの大人も、教師もそれに加担していた。
今では明らかにイジメだと言えそうな記憶も数え切れないほどあるが、話が逸れるのでここでは割愛しようと思う。
一応、私はそれが起きる場や条件を巧妙に避けるようになったので、被害は壊滅的なほどに大きくなることはなかったのだと思う。
彼はそんなことは知ってか知らずか、至って態度は普通だったどころか、優しくしてくれた記憶がある。
委員会の活動として、週に何度か、その活動拠点の部屋に行き見回り当番のようなことをするようになっていた。
そこは校内でも人通りの少ない場所にあり、そこにいるだけでも守られているような気持ちになったが、彼がいることでまた、より居心地が良く安心できる場所に感じられた。
その時間が、私は楽しみになった。
そんな生活がしばらく続いた。
気づけば、彼を見るためだけに学校に来ている自分がいた。
彼は同じクラスだった。
席が隣になったり、接点ができる時もあったが、文字通り影から見るだけでも癒されていた。
彼の存在そのものが癒しだった。
それまで、学校は私にとっては無駄な時間だった。
今思えば「進学」という目標でもあれば勉強に逃げることもできたと思うが、もともと大学までの進学は小さい頃からありえないという家だったため、その方面でのモチベーションを持つ発想にも至らなかった。
一言で言ってしまえば、この時期、特に学校は好きではなかったし概ね面倒なものだと思っていた。
しかし、この時期は彼を見るというモチベーションが生まれていた。
まだ私は恋愛なんて知らないような子供だったが、彼のことを見ているだけでも毎日が幸せだった。
しばらくそんな生活が続いていたように記憶している。
やがて、彼が学校に来る日が少しずつ減っていった。
理由はわからなかったが、私にとっても学校に行く意味がなくなってきたので、彼ほどではないが私も時々休んだりするようになったと思う。
彼を見る機会はやがてほとんどなくなった。
私が彼がいない教室にいる意味は、もうなかった。
そこはそれまでの教室と似た形相をしているが、まったく別の空間に感じられた。
しばらくしてから、彼がイジメに遭っている噂を別のクラスメイトから聞き、
ほどなくして担任が主導したクラス会議となった。
彼は別の友達に対して普段から相当我慢していたらしく、
ある日我慢できなくなった彼は、その友達に手を出して骨折させてしまったらしい。
そこから彼はターゲットとなってしまったようだ。
私の時のように教師が絡んでいたのかはまったく不明だが、その時と人間は変わっていないので、その可能性もあっただろう。
内容としては私より悲惨で、手もつけられないように聞こえた。
ただ、私はその現場を見たことがなかったし、知らなかった。
私の行動範囲内では知りようもなかったはずだ。
こう時間をとって大人の口から公にされなければ、いくら聞いても信じなかった自信がある。
たとえ他人がどう評価しようと、私にとってはたった一人の好きな人だったからだ。
今回、私のように知らない人も少なからずいたはずだ。それをこのようにクラス全員に広げるのはいかがなものかとも思った。
この会議により、彼を余計に追い込んでいることは流石に私でもわかった。
そしてこの時、クラス全員が彼に対して手紙を書かされた。
正直に書こうとするなら、私は彼に対する想いしか書くことがなかった。
会えていないので、余計に気持ちも溜まっていた。
だが、先に提出した人の文章が露骨に担任に検閲されていたので、結局当たり障りのないことしか書けなかった。
彼はあの大量の手紙を見たのだろうか。
私が彼の立場なら、間違いなく見ないで捨てると思うが。
その後、彼は学校に来ることはあったが、もうどれくらいの頻度だったかは覚えていない。
ただ、腫れ物に触るように扱われているのが、私は自分のことのように辛かった。
それ以降も雰囲気的にイジメはあったように思うが、私はやはり現場を見ることがなかったので、はっきりとしたことはわからない。
とにかく、何もできない自分が本当に悔しかった。
人生経験を積んだ今なら、当時の私でもできそうな方法がいくつか思いつくので、教えることができるなら教えてあげたいくらいである。
でも、当時の私は無力で何もできなかった。
その頃は、おそらくもう卒業も近かったのだろう。
彼は、彼が仲が良かった友達数名にサポートされ、なんとか卒業式の日を迎えられたのだと思う。
そして卒業式の日に、彼が東京の学校に転校することを知らされた。
中学は全員基本的に同じ場所に進学するので、このままだと何も変わらないだろう。
私が彼の親であれば、やはりそうするだろうと思う。
県外であれば、余程のことがなければ、高校卒業までこれまでのクラスメイトと会うこともなさそうだ。
小学生の私にとっては、東京は行ったこともない遠い場所だった。
流石になにか言わなければ、と思ったが、
卒業式の日にタイミングを見計らうこともできず、親の目を盗むこともできず、
この時はもう、何も伝えることはできなかった。
私は、中学に入っても後悔していた。
今では出来る限り後悔しないように生きているつもりだが、それもこの件があってから学んだことだ。
この件に関しては今も後悔している。
ないとは思うが、万が一、今後彼に会う機会があれば間違いなく伝えると思う。
中学ではもう、学校に行く意味がないので、入って最初の年は保健室登校になった時期もあったほどだった。
この件が主な原因だったとは当時は誰にも言えなかったし、言いたくもなかったが。
人間、言えるときに言わないと、いつ伝えられなくなるかわからない。
だから似たようなことがあれば、無理してでも伝えないといけない。
そして、行動しないと何も変わらない。
これ以降は、そんなことを心に秘めながら生きるようになった。
私はその10年後に、好きになった人にきちんと想いを伝えることができた。
私はもう学生時代の知人との連絡はすべて途絶えているため、今では思い出せるような人も限られている。ほとんどの人が顔も思い出せない。
だが、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を見た時には、今でも無意識のうちに彼のことを思い出しているのだ。
偶然にも、宮城に行ったときに同じTシャツを見たことがあって感激したことはある。
あのTシャツはやはりとても似合っていて、誰よりもカッコよかった。
今どうしているだろうか。元気にしているだろうか。
あのときのことを引きずってはいないだろうか。
どんな形でも良い、ちゃんと幸せになっているのだろうか。
私にはもう知る術はないが、やはり今でも思い出す度に、そう過ごしてくれていることを祈らざるを得ない。