某所で、親子関係が上手く行かないのは世代が違うからだ、という主張を聞いた。
私は毒親育ちだが、実体験としてこの理論は違うのではないかと思う。
そんなに単純な話ではない。
私は社会に出てから様々な年代の方々とかなり多く接してきた。その経験からか、”出生年代の違いは毒家庭が形成される強い要因にはなりえない”と強く思うのだ。
また、それが成り立つとしたら、毒親という言葉が浸透するより前に「親というものはこういうもの」だということが一般常識としてもっと広まっていて『親だから大事にしないといけない』といったような常識としての圧力も薄まっており、
住民票閲覧制限をかけるのにも証拠集めや警察とのやり取り、行政側の担当者に恵まれるかの運も必要など、ここまでハードルは高くなく、
同世代間でももっと共感し合うことができ、結果的に苦しむ人も減ると思われるのだが、親が毒ということに関しての世間での共感はそこまで強くは起こっていない。
毒親育ちがたとえ過半数でも、世間のイメージとしては大多数がそうとはなっていないからだ。
「世代が違うから」ではなく「違う人間だから」という方が近いのではないだろうか。
違う人間だからこそ、合わないのは当たり前である。
世の中、合わない人間と遭遇する確率のほうが高いだろう。社会の中で必要に迫られ、表面的には上手くやっていける関係でも、生活を共にまでしようとするとかなり息苦しさを感じるであろう人間関係がほとんどではないだろうか。
親は社会に出てからたくさんの人間の中から選んだパートナーや友人とは違うのである。
私は、社会を知ってからの方が、より自分の親が普通ではないのだと実感させられた。
社会でも発生しうるモラハラも、親より酷い人には滅多に遭遇しない。
以前、接していた当時に親に匹敵しそうとまで思えた人は一人だけいた。その方は周囲と問題を起こしがちなトラブルメーカーで、子供も不登校がちだとぼやいていた。本人にはっきりと伝えることはないが、明らかに親であるその方にも問題があることは傍から見ていても周囲の人間はそれとなくわかっていた。
同僚であればどちらかが会社を辞めれば縁が切れ、記憶も徐々に薄れていくのだが、親はやはり法的には縁は切れない。
和解は理想論であるが、そもそも先方が望んでいるかということも別の話である。
やはり、結局は別の人間に過ぎないのだ。
親が子供の話を聞くかどうかというのは、親の自由意志によるものであり、はじめから聞く気がない人間を別の人間である子供が変えることはできない。
一度でも思いの丈をぶつけたことがあれば尚更、既に諦めは付いている毒親育ちの方も多いだろう。
問題は和解ができたか否かではなく、何年経っても自分の心の中で重しになりがちだということである。和解はその一助となりうるが、和解で解決するとは限らない。
子供側が本心では納得していないのに謝られたから許すということになった場合、やはりそれは自分に嘘をつくということになり、それは深層心理下でも自分を大切にしていないということにもなるだろう。下手すれば、子供時代の繰り返しにもならざるを得ない。
自分の心の中の問題であり、和解そのものに拘る必要はないと考える。
何年も会わずに離れていれば、時間がある程度は癒してくれることもあるだろう。
また、親子関係で得られなかったものを社会の中や血の繋がりのない所から得ることだってある。
私は世代が変わる程度には年上の彼と数年ほど暮らしているが、実家時代では考えられないほど幸せである。
ここからも世代の問題ではなく個人個人の問題だと考えられるのだが、どちらにせよ、目を背けたくなるような親子関係はいくらでも世の中に存在するし、内容もその悲惨さもケースバイケースなので、一律に何が問題かと言うのは難しいことではないだろうか。