霧月の執筆道場

文章の練習用のブログです。内容はノンフィクション寄りの雑記(Essay)。

人間は希望も絶望も与えられる存在である

本日は内容重めの日記です。

生々しい描写は避けているつもりですが、全体的に暗めです。

念の為ご注意ください。

 

 

今日は気が重い用事を片付けてきた為、それで精一杯の日だった。

打ち合わせ場所まで片道高速一時間。

桃色の高速道路に桜を散らす雨は容赦なく打ち付け、時間が経つに連れて強くなった。

天気が悪いのも手伝ってか、行くまでが非常に憂鬱だったが、事自体は今日は問題なく終わった。

 

この件自体の詳細はここでは伏せるが、まだ終わってはいない。

厳密に言えば私の件が終わってもこの件自体は終わらないだろう。ただ、私の件に限っては先は見えている話でもある。それ以上は私が関われる範囲を超えている。

 

それでも、ずっと身体が縛られるような、自分を否定したくなる感覚に見舞われた。

帰りの道でサービスエリアに寄ってはみたが、何を見ても何にも興味が持てなかった。

 

一言で言えば、思い出したくない記憶を思い出す必要があり、苦しかった。

そしてもう、この件以来誰も信じられないとも思っている。その反面、誰も信じずに生きるということにしてしまえば、人生はどれだけ無意味なんだろうとも思う。

これまでの人生で、希望を与えてくれたのも絶望を与えてくれたのも結局「人」である。人と関わることで楽しかった。人と関わることで、絶望した。

少なくとも今のところは傷が深いため深く関わる気にはならない、と表現すればそれが近いのかもしれない。

割合として多いとは言えないが、事実として、人を傷つけてなんとも思わない人や、今現在でも人を傷つけ続けることで生きている人間が実際に世の中に存在している。

同じ言語を使っていたとしても、彼らは人間といえるものではないのかもしれない。

 

私としては、自分が消える時に最低限誰にも迷惑がかかっていなければそれで良いと思っていた。ある意味、今回はその信念を守るために戦っている。

また、何かを成し遂げたいとか、希望を持つことは全て贅沢の範疇であり「人生の中でやらなければいけないこと」には含まれないと思っていた。それをしようとするだけの資源に生まれついては恵まれていなかったし、今持っているものや環境など、大半は大人になってから必死で獲得したものである。生まれ持ったもの"だけ"で比較するなら最初から持っている人にはどうやっても勝てない。

そのうえで、目の前の誰かが喜んでくれるのなら、日々をそのために過ごせば良いと思っていた。実際、長い目で見なければそれは自己満足度が高い時間の使い方だと思う。

ただ、長い目で見るならば、それだけでは不足なんだろうなとも思ったりもする。

 

いずれにしても、多様な人がいるというのは良い意味でも悪い意味でもそうなのだという事実がある。人のことを思いやれたり人の立場を考えられたりする人ばかりではないということでもある。想像が及び切れないが、そのタイプの人間は多くの人間とは価値基準が違うので、自分の中では信じられないようなことを平気で行ったりする。

 

ただ、そういう問題が起こったり巻き込まれる時は自分が弱っているときだったりする。それが理由ばかりではないと思うが、普段から自分を大切にしようと心がけることが大事かもしれない。