霧月の執筆道場

文章の練習用のブログです。内容はノンフィクション寄りの雑記(Essay)。

「環境格差を本人が知るのは大人になってから」というのも格差の一部

今日は昔の友達の誕生日である。

 

彼女とは保育園から小学校卒業頃まで仲が良かったはずだ。中学までは一緒だった。

彼女とはもう連絡は途絶えている。

彼女の住んでいた実家の場所も知っているし、彼女の家の電話番号は非常にわかりやすい語呂合わせだったため、今でも思い出せる。そのため物理的に連絡することはできる。だが、特にコンタクトを取ることはないだろう。

 

私は、大人になってから彼女の家と私の家の格差をはっきりと知った。

私の家はとにかくお金のない家だった。少なくとも「金が無い」は親の口癖だった。

 

小さい頃から言われていたのは、行けるのは高校までで、大学に行くという選択肢は当然のようにないということ。そのように教育されたので、大学に行ったら何が違うかというのも社会に出るまで知らなかった。

 

一方、彼女は無事大学まで行き今頃は看護師になっているはず。

 

当時はその違いがどう将来に影響を及ぼすのか分からなかった。また「大学は無駄」だと言い切る自分の親が正しいと思っていた。

実際はそれは正しくもなんともなく、親は「親自身にとって都合の良いこと」を吹き込んでいただけ、あるいは親自身も大学を知らなかっただけ、のいずれか、またはその両方でしかない。

 

彼女と私の違いは「生まれた家の差」だけである。

それだけで最初から決まるものがある。

彼女の方が生まれつき何か優れていたとか、人間的に上位などということはないはずだ。

 

…しかし、当時はうっすら彼女と私の待遇の差(教育に金をかけてもらえるなど)を感じていて、それはどこか分からないけれど自分が悪いんだろうなと考えていた。

私は大事にされるべき存在ではないんだと思っていた。

 

実際はこの教育待遇において、本人が悪いという子供は存在しない。

そこまで最初から見抜くことは子供には難しいと思うが…。

 

私と彼女の誕生日は2ヶ月ほどしか変わらない。

同じような期間の人生だが、

現時点で、結果的にトータルで考えた場合、どちらが良いのかははっきりと言えない。

 

まず会っていないので彼女の状況の確認もできないし、家庭を持っているかどうか、など、そういう違いもある。

彼女は中学卒業時点で同級生と付き合っていたので、そのまま結婚しているかもしれない。

あるいは大学以降で他の人と付き合っているかもしれない。全く分からない。

そして今、特にそれを確認したいとも思わない。

 

おそらく、どのような状態であったとしても、今の私から見て彼女が羨ましいとはあまり思わないだろう。

 

私も今は一緒にいる人がいるし、実家にいた時よりもずっと大切にしてもらえている。

これは家は関係なく、私の行動力と強運による結果でしかないため、再現性はまったくない。

同じ人生を繰り返したとしても同じ選択ができる自信はない。

はっきり言ってしまえば偶然にすぎないだろう。

 

そのため、今現在だけを切り取った場合は羨ましいとは特に思わない。

しかし事実として、格差は経済格差だけでなく、情報格差、人生を狭める格差の原因にもなっている。

経済の差が主であっても、経済だけの影響にとどまらず、心の余裕の差なども生んでしまう。

それが及ぼす影響の範囲は計り知れない。後から経済の力では取り返しがつかないほどになる場合だってあるだろう。

 

良くない家庭環境というものは、結論から言って経験する必要はないものだったと思う。

独立した後も、単純に生きづらくなる。

現実的には自力で修正するしかないが、問題のなかった家庭出身よりも、生き方の修正に明らかに手間、時間、労力がかかる。

 

この手間は必要のある手間なのだろうか。

 

今の私では、あって良かったとまでは言えない。

経験として、平均よりも過酷な家庭環境は、現実の人間関係の間では理解されることもなかった上(ネットは別)、その他プラスの方向で役立つこともなかった。足を引っ張るばかりなので、結論としてはないに越した方がいい。

 

いろいろなことを踏まえて、これからの世代が、自分が親になるかどうかというのは個々の判断なのでなんとも言えないが、

この辺りを重く考える人が一昔前よりは少し増えたように思う。