霧月の執筆道場

文章の練習用のブログです。内容はノンフィクション寄りの雑記(Essay)。

少子化は時代の流れであり人為的対策は困難という説

私が適齢期というのも有り、ここ数ヶ月ほど、子供について考えていた。

 

実際にどうするかは別として、「子供について考える」事自体は本能なのだと思う。

 

私の環境としては、相手はいるので”私が望みさえすれば不可能ではない”ような状態。

不妊かどうかなどは不明。

ただ、彼には「要らない」と言ったことはあっても「欲しい」と言ったことは一度もないため、今更希望しても、もしかしたら困るかもしれない。

しかしどう考えても私の中では欲しいという結論にはならないので、そうなることはないだろう。

 

私もそろそろ、私の母が私を出産した年齢が近づいてきている。

偶然かはわからないが、今の私の環境は、当時の自分の母親と似た状況にあるように思う。

一言で言えば、社会との接点がかなり少ない。

私の母はある種特殊な事情によりそうなっていた。

私の場合は、彼が転勤族ということ、そして継続的に働くことも体調面での不安があり、今からこの生活圏内で積極的に社会とつながるのもなんとなく憚られている。

 

私の母は孤独の中で私を出産した。

私も似たような状況になり、正直この年齢になって子供が欲しくなる気持ちも理解できる。

だが、それ以上に、子供側の気持ちや状況、長い目で将来を考えると私はやはり出産を考える気にはならない。

 

日本では約50年ほど前の第二次ベビーブーム以降、出生数は右肩下がりである。

出生数のグラフや歪な人口ピラミッドは、少なくとも学生時代に殆どの方が見ているはずだ。しかし実際は以前から言われていた政府の予想よりも早いペースで減少している。

 

原因は多数あり、これだと言い切ることは難しい。

だがある意味、よくも悪くも個人が尊重されるようになった結果だとも思う。

 

たとえば、以下のようなことが言えそうだ。

 

1.結婚・出産が個人の選択の問題となり、自己責任の度合いが増し、以前よりもそれについて深く考える人が増えた

2.社会や個人の余裕が減ったため、よりそれぞれが時間・お金の投資先を厳選するようになった

 

現代において、妊娠・出産というイベントは、個人レベルではあくまでも任意である。

少なくとも「生きていくために絶対に必要なこと」とは言えない。

すでに生まれている自分自身の世話は生きている以上は必要なことだが、そこまでの必要性が「これから新たな命を生み出す」ことにはない。

家族・親戚や社会の圧力も、全体としては昔ほどではなくなっている。

 

逆に言えば、皆婚時代は個人で考える余地もなく出産しており、その分出産を望まない人も産んでいたと思われる。

産みたい人だけが覚悟を持って産むのなら、理論上、不幸な子供は減る可能性も上がる。

また、出産が選択になり、本心に沿って生きる人が増えることで、理論上、生きやすくなる人も増えるだろう。

(実際は景気などの社会の問題があるので、それだけで生きやすくはならないが…)

 

今現在、減っているとはいえ、出産する人がゼロにはなっていない以上、

人口規模は減ってもまだ当面ゼロにまでなることはないだろう、とも思う。

もしかしたら、数百年単位の流れで考えた時には誤差の範囲なのかもしれない。

 

時代が個々の自由を尊重する流れになっている以上、個々の人生にここまで影響を与えるようなことを公的に対策・推進するのはかなり難しいのではないだろうか。

 

強いていうならば、少子化を直接対策するよりも、今生きている個人個人がもっと生きやすくなるように資源を割いた方が良いように思う。

生活に余裕が出て、心に余裕が生まれれば、子供を考える人も増えるかもしれない。